昭和婦人

終戦の直前に北陸の農家に末娘として生まれた、ごく平凡でな女性の人生のお話です。

2, 母の病と青春時代

 恵美子は富山の小作人の農家の末娘として生まれました。小作人とはいえ代々先祖が土地を少しづつ買い足し、当時としてはそこそこに裕福な農家の娘さんだったそうです。多くは語りませんが父親は農家の当主らしく頑丈で朴訥、いわゆる頑固で屈強な農家の長だったらしいですが、対照的に母親は体も小さく、いつもおどおどと怯えていたそうです。

もともと精神的に安定しておらず脆い面もありいつも家族と親戚一同の顔色を伺い、怯えながら日々暮らしていました。

 現代のように精神疾患についての研究や認知など全くされておらず、精神疾患を持った人々を周りは変な人、変わり者程度にしか射て入れてもらえず、いつも不安定で、塞ぎがちで周りと同じ様に行動できない自身に苦悶し、誰一人として彼女の心の支えになることもなく、

そしてそんな孤独な生活が日々彼女の心を蝕んで行きました。

 幼い恵美子は成長過程で、母親の心が少しづつ壊れてゆく様を日々ただ傍観しておりました。ただ受け入れるしかない現実、周りの子供の母親とは違う、何かがおかしい母親。

子供にとっては、遠足、体育会学芸会は日々の学校での生活や努力を両親に見てもらえる大切なイベントですが、恵美子の母親にとって、はわざわざ学校まで出向いて他の母親たちと交じったりするなど、とてつもなく高いハードルで、そんなたいそうな度胸や余裕などあるはずもなく、一日中、薄暗い蔵の中にただただ隠れているのが日課でした。

 もともと体も弱く、学校も休みがちだった恵美子。他の子供達の様に、放課後は近所の川や田んぼ、野山に遊びに出掛けることも無く、学校から帰宅してすぐにすることは、まず母親を探すことでした。

 運が良ければ家の中で家事をしている日などもあるものの、散々家中を探し回っても見つからない時は、大体真っ暗な蔵にひっそりと隠れていました。当時電気も通っていなかったので明かりといえばランプでしたが、それもつけず、泥まみれの農機具に囲まれ真っ暗闇で何時間も蹲っている母親を見つけては、蔵の中から引っ張り出して家の中に連れて行った恵美子。それは中学、高校になるまで何年も続きました。

 

 ところがある時期から母親は頻繁に農薬を隠し持つ様になりました。度々自殺を試みていたのです。

何度か自殺未遂を起こして病院に運ばれた母親。そんな母を毎日帰宅後に無事な姿で見つけるまでは気が気ではありませんでした。

窓気ない少女時代、ニキビや成長につれての体の変化、女友達とたわいのないおしゃべりに耽ったり、ささやかなおしゃれを楽しんだり、気になる男子生徒とのことを語り合ったり、将来の進路についてあれこれ夢を膨らませたりなど、何一つできなかった恵美子。十代の女の子の不安定で夢に溢れた時間の大半を、心を病んだ母親を探し続けていた恵美子の少女時代は決して華やかな、時間ではありませんでした。

昔気質の頑固な父親。家の体面を気にして、体も弱く心を病んだ嫁を親戚縁者に足して恥ずかしく思い、隠すしかない父親、現在のように鬱やその他の精神病に対する理解が広く浸透していなかったこともあり、母親を心の闇から救うことは誰にも出来ませんでした。そして日々少しづつ長い年月をかけて一層深い闇に引きずり込まれて行きました。

医療や社会から精神病や鬱が認知されてつつある現代でさえ、治療をするのが難しい、病気だから治療すれば治る、専門家のケアがが必要という観念がなかった当時には、非常に生きづらかったと想像できます。