昭和婦人

終戦の直前に北陸の農家に末娘として生まれた、ごく平凡でな女性の人生のお話です。

5、後悔と親代わりの兄の死

 小さな一件家の二階部分の社宅にとりあえず居を構え、若い二人の生活は始まりました。 引越しからとりあえずは1ヶ月間程は、終業後、日の暮れる前にまっすぐ帰宅して新婦を気遣う正之でしたが、1ヶ月も過ぎる頃から残業や付き合いで早くに帰宅することもなくなり、夜遅くに帰宅する様になりました。元々お酒が大好きで、今のように飲酒運転も厳しく取り締まったりしていなかったので日々同僚たちと遅くまで飲んだりして、気ままなサラリーマン生活を送る正之。  

 毎日たった一人で、全く勝手の知らない土地で日々の生活を過ごす恵美子。東京での楽しかった生活と比べ天と地の差でした。 当時は今のようにインターネットもなく、電話も家に一台ある家も珍しく、唯一のコニュニケーション手段の手紙以外に誰かと繋がることもなかったため、毎日寂しい思いで自身の軽はずみな行動を後悔する恵美子。

 見合い結婚という風習がごく当たり前で、誰もがこれといって疑問も持たずに見合い結婚生活を送っていた当時では、恵美子の環境は取り立てて大変だったとは言えないかもしれませんが、見も知らぬ若い2人がお互いに誰も知らない土地で始める生活は、決して楽ではなかったことは事実です。  

 買い物ひとつとっても今の時代のようにスーパーや八百屋に、ひょいと歩いて行くような便利な環境ではなく、日々バスに乗って重い野菜や洗剤、日用品を数時間かけて遠くのスーパーまで買い出しにゆかねばなりません。とりあえず、少しづつですが近所の人々と言葉くらいは交わす様になりましたが、元々人見知りで内気な性格の恵美子、 誰一人知り合いのいない土地で寂しさを紛らわせるのが、唯一気持ちを分かち合える、田舎に籠っている母親に手紙を出すこと、そして母からの返信の手紙を心待ちにする日々でした。  

 とはいえしきたりと世間体を気にする母親からは、「いやだったら帰っておいで」という言葉などは期待できるわけもなく、ひたすら「結婚とはそんなものだ、我慢すればいずれ慣れるし、いいこともある」と諭され続け、逃げ出したい、こんな最果ての北の大地から、ろくに家に帰ってこない若い旦那を待ち続けるつまらない日々から脱出したいと思いながら、きっかけのないモヤモヤとした日々を送る生活でした。  

 北海道での生活が始まって程なくたった頃、親代わりだった一番上の兄の訃報が届きました。出稼ぎ先で事故に遭い亡くなったとのことでした。

 当時は田舎では野良作業ができない冬の間、働き手の男達は皆都会に出稼ぎに出ておりました。 殆どは土木作業、工場、港湾での危険な肉体労働。冬季限定だった為、事務やセールスなどの会社勤めの仕事に就ける場合はほとんどなく、ましてや雇用契約、保険などもある筈もなく怪我や事故などは日常茶飯事。

大怪我などしても保証などなく、使い捨ての労働力でした。

 長兄を失った今、家を取り仕切るのは兄の嫁。義理の姉とはいえ、特に恵美子を義理の妹として可愛がってくれるでもなく、気が強く高圧的で、あまり馴染めなかった恵美子でした。もう帰れるところは無い。生まれ育った生家は他人が取り仕切るようになってしまったのです。

 父に続き父代わりだった兄まで亡くして、葬儀を済ませ悲しみにくれるながら北の大地への帰路につく恵美子でした。

4、北端の新天地と新婚生活

 不本意ながら綺麗な着物を着て見合いの席についた恵美子。

その時の見合い相手が正之、のちに夫となる相手でした。もともと結婚に興味がなかった恵美子は、互いの紹介をした仲人が退席した後ろくに正之と話もぜずに,食べるものだけ食べてさっさと帰宅しましたが、その日のうちに先方から恵美子が気に入ったと連絡を受け、恵美子も返事をせざるを得ない羽目に。

  兼ねてからの恵美子の見合い相手は医者や地元の名士や地主の子息などなどよっぽどよい条件の相手ばかりでした。

 そこそこ良い家で、若くて器量の良いほうだった恵美子には選びたい放題で、なんの取り柄のない、自分の家より小さい小作人農家の末っ子で、しがない会社員の正之など到底受け入れられる望みなどなかったはずですが、正之のたった一つの条件が恵美子の興味を引きました。

 小さな農家の7人兄弟の末息子で実家からは継がしてもらえる財産など全くなく、名古屋の無名の大学を出て東京で会社員をしており、すでに北海道に転勤が決まっていた正之。

 とにかく田舎に留まりたくなかった恵美子にとっては、正之は唯一、多々いる見合い相手の中でも好都合だったためあまり深く考えずに、つい2つ返事をしてしまいました。

 後から考えればずいぶんと軽はずみなことをしてしまった恵美子。長兄は、恵美子の気が途中で変わっては大変とでも思ったのでしょうか、あっという間に結納、結婚式と話は次々に進み、お見合いから数ヶ月後には恵美子は北海道に旅立っていました。

 当時は青函トンネルもなく、長い電車に揺られて青森まで到着。本土の北の先端から連絡船に乗り未知の北の大地に降り立った若いカップルの恵美子と正之。

 その時初めて自分の軽率さを後悔した恵美子でしたが、時すでに遅し。盛大な結婚式をして家族親戚たちに送り出された直後にいかなる理由でもさっさと実家に帰れるはずもありません。ほぼ他人である正之とたった二人で最果ての北の大地で新生活を始めざるを得ない恵美子。友人も知り合いすらも誰もいない、札幌。

たった22歳で、それまでお金の不自由な生活なども知らない世間知らずの恵美子にとって、未知の新しい土地で夫婦として、嫁として生活を始める不安と大変さは、想像を絶するものだったに違いありません。

東京へ。

 当時は皆、高校卒業後は長男のみが農家の家業を継ぎ家に残りました。

長男以外の男の子供は大体は他所で仕事を見つけるか、大学か専門学校に進学します。女の子たちも地元で仕事を見つけるか、家に残って家事と農作業の手伝いに専念して結婚までの時間を過ごすのが普通でした。稀に都会に仕事を見つけて働きに出る事もありました。

恵美子はごく少数の女生徒と同様に、高校を卒業した後、とりあえず東京に就職先を見つけることにして家を離れました。 東京の下町で下宿先を見つけて、一人で生活を始めることにしたのです。  

 慣れ親しんだ田舎の実家を離れて暮らすことは、田舎から出たことのない恵美子にとって寂しさや不安がなかったとは言い切れないですが、古いしきたりに縛られた富山という田舎の生活に正直うんざりしていたのも事実でした。 柵だらけで刺激の無い田舎暮し、実家の重苦しい空気といつも怯えて人の目から隠れている母親。そしてそんな義母に辛く当たる義姉を日々目の当たりにし続ける生活から解放されたいという願いがなかったとは言い切れませんでした。

 田舎を離れての東京での生活は、何もかもがとても新鮮でした。小さな一間のアパートに部屋を借り、電車に乗って 会社に通い、電卓や算盤を弾いて事務の仕事を覚えました。

 昭和30年代。まだ日本が貧しかった当時でも、 東京は田舎に比べれば物も溢れ、当時流行の新品の洋服や靴などを、少ないながらも自分のお給料で買い物をしては、おしゃれを楽しむ生活は、田舎で生まれ育った恵美子にとってはとても楽しい時間でした。 同郷の友人たちも少し電車で離れた場所に住んでいたこともあり週末には一緒に過ごしたりなどして、あまり寂しいなどとも感じることもありませんでした。

 田舎育ちでしたが、若くてそれなりに可愛かった恵美子は、初めての恋愛らしい経験などもありました。田舎の野暮ったい 農家の男たちしか周りにいなかった恵美子にとって、都会の男性たちはよっぽど洗練されて、会話も豊富で楽しく輝いて見えたのです。一度はある男性と真剣に交際して、実家に長兄に会わせに連れて行ったこともありましたが、 あっさりと兄にダメ出しをされて別れることになりました。家長である兄はいわば父親同然、逆らうわけには行きませんでした。

 そうこうしているうちに、あっという間に数年が過ぎて恵美子も20歳になっていました。

とある週末に里帰りをしていたところ、一番上の兄から突然「今すぐに美容院に行ってこい」と言わました。あたふたと髪結い&着付けをされて見合いに駆り出されたのです。初めてのことではありませんでした。

 予てから長兄がなんども見合いの話を、知り合いのつてで持ってきており、のらりくらりとはぐらかしたり、会っては見るものの速攻で断ったり、果ては見合いの途中で帰ってきてしまったりと、若い恵美子は見合い結婚など全く真剣に考えておらずやりたい放題でした。

 若くて世間知らず、そこそこお嬢様育ちの恵美子にとって結婚など何の切迫感もなく、真剣に考えていませんでしたが家長である兄にとって娘を嫁に出すのは親の仕事、早くに片付けなければ歳と共に難しくなってしいます。

 しかも東京でチャラチャラと暮らしている生活が長く続けば、結婚して落ち着くのがもっと難しくなるに違いないと焦った兄は、あれこれと親戚知り合いからお見合いの話を持ってきてもらっては、恵美子をお見合いに席立てるのでした。

3、父の死、居心地の悪い実家

 恵美子がまだ十代後半の時、父親が病気で他界しました。

まだ若かった父親でしたが、長年の無理がたたったのか倒れて数週間であったいうまに逝ってしまったのです。

父親の葬儀を終え、残された家族は長男の手に委ねられました。まだ結婚して間もなかった長男は膨大な農家仕事と家長としての役割を必死にこなしました。当時は農耕器具も機械化されておらず、力仕事は人力か牛や馬に頼っていました。

田んぼをいくつも持っていたので、男女問わず働き手は皆毎日早朝から暗くなるまで畑で働きます。広い畑を耕し、稲を一つ一つ植えてゆきます。

 気の遠くなる様な厳しい肉体労働。家事もガスコンロなどもなかったので女達は早朝暗いうちから起きてかまどで火を焚き、湯を沸かして米や麦を調理して、朝食を用意、食べ終えると畑に向かいます。もちろんスーパーマーケットなどなく、ほぼ自給自足の生活で家の周りで野菜などを育てて、鶏を飼い卵を採取、月に1回くらいは鳥を絞めて、肉を食卓に出します。牛肉、豚肉などほぼ口にすることはなく魚は海からさほど遠くなかったので魚の行商人がたまに各家を回って干物などを売りに来るので時折食卓に登りました。

 冷蔵庫も木製で氷を入れて冷やすだけの簡単なものだったので、滅多に食べれるわけではなく肉や魚などある時に食べるだけ、それ以外は米、麦、豆、野菜と乾物が中心の質素な食生活でした。

洗濯ひとつとっても洗濯機などはなく簡単な道具しかなくほぼ手作業、水道も通っていなかったので、何度も井戸で水を汲み、もちろん化繊などの軽い乾きやすい繊維の素材などなく、綿や麻などのゴワゴワした重い素材ばかり、農作業で汚れ切った衣類を手で一つひとつ洗うのは、かなり骨の折れる仕事でした。

 収穫が終わり、精米したお米を農協に納めて寒くなると、農作業の期間は終わりを告げます。冬の富山はとても雪深く農家仕事はほとんどできないので、冬の寒期時には男手は東京に出稼ぎに出て、家を守るため身を粉にして働き続けました。

そして家には長男の嫁とおとなしくて穏やかな次男、心を病んだ母親、恵美子が残されました。長兄の嫁はしっかりした働き者で、夫が家を開けている間は家を取り仕切り、せっせと働いていました。

 しっかり者で気も強かったため、気が弱く体の小さい義母を敬うどころか、いたわることもなくどちらかというと辛く当たっていました。もともと疎ましく感じていたようですが、家長の義父の死後、長兄が出稼ぎなどで家を空けるようになってからは明らかに義母に辛く当たるようになりました。

 富山という土地柄、雪深い冬は長い期間、誰もが1日の多くの時間を家の中に閉じ籠る生活でした。血の繋がった家族でさえ数ヶ月の間、家の中に閉じ込められるのは、ただでさえ息の詰まるものです。

 まして本来は義母の役割である家を取り仕切る仕事を担わければならない兄嫁。自身は体も頑丈だったので家事全般と農作業も全て手伝い、親類縁者の付け届け、近所の付き合いもきちんとこなしているのに、家事こそしますがいつも引き篭もってばかりの義母。血の繋がりもない、精神を病んだ他人と暮らすことは兄嫁にとって苦痛で会ったのかもしれませんが、徐々に義母に対する不満は彼女の中で大きく膨れ上がって行きました。

2, 母の病と青春時代

 恵美子は富山の小作人の農家の末娘として生まれました。小作人とはいえ代々先祖が土地を少しづつ買い足し、当時としてはそこそこに裕福な農家の娘さんだったそうです。多くは語りませんが父親は農家の当主らしく頑丈で朴訥、いわゆる頑固で屈強な農家の長だったらしいですが、対照的に母親は体も小さく、いつもおどおどと怯えていたそうです。

もともと精神的に安定しておらず脆い面もありいつも家族と親戚一同の顔色を伺い、怯えながら日々暮らしていました。

 現代のように精神疾患についての研究や認知など全くされておらず、精神疾患を持った人々を周りは変な人、変わり者程度にしか射て入れてもらえず、いつも不安定で、塞ぎがちで周りと同じ様に行動できない自身に苦悶し、誰一人として彼女の心の支えになることもなく、

そしてそんな孤独な生活が日々彼女の心を蝕んで行きました。

 幼い恵美子は成長過程で、母親の心が少しづつ壊れてゆく様を日々ただ傍観しておりました。ただ受け入れるしかない現実、周りの子供の母親とは違う、何かがおかしい母親。

子供にとっては、遠足、体育会学芸会は日々の学校での生活や努力を両親に見てもらえる大切なイベントですが、恵美子の母親にとって、はわざわざ学校まで出向いて他の母親たちと交じったりするなど、とてつもなく高いハードルで、そんなたいそうな度胸や余裕などあるはずもなく、一日中、薄暗い蔵の中にただただ隠れているのが日課でした。

 もともと体も弱く、学校も休みがちだった恵美子。他の子供達の様に、放課後は近所の川や田んぼ、野山に遊びに出掛けることも無く、学校から帰宅してすぐにすることは、まず母親を探すことでした。

 運が良ければ家の中で家事をしている日などもあるものの、散々家中を探し回っても見つからない時は、大体真っ暗な蔵にひっそりと隠れていました。当時電気も通っていなかったので明かりといえばランプでしたが、それもつけず、泥まみれの農機具に囲まれ真っ暗闇で何時間も蹲っている母親を見つけては、蔵の中から引っ張り出して家の中に連れて行った恵美子。それは中学、高校になるまで何年も続きました。

 

 ところがある時期から母親は頻繁に農薬を隠し持つ様になりました。度々自殺を試みていたのです。

何度か自殺未遂を起こして病院に運ばれた母親。そんな母を毎日帰宅後に無事な姿で見つけるまでは気が気ではありませんでした。

窓気ない少女時代、ニキビや成長につれての体の変化、女友達とたわいのないおしゃべりに耽ったり、ささやかなおしゃれを楽しんだり、気になる男子生徒とのことを語り合ったり、将来の進路についてあれこれ夢を膨らませたりなど、何一つできなかった恵美子。十代の女の子の不安定で夢に溢れた時間の大半を、心を病んだ母親を探し続けていた恵美子の少女時代は決して華やかな、時間ではありませんでした。

昔気質の頑固な父親。家の体面を気にして、体も弱く心を病んだ嫁を親戚縁者に足して恥ずかしく思い、隠すしかない父親、現在のように鬱やその他の精神病に対する理解が広く浸透していなかったこともあり、母親を心の闇から救うことは誰にも出来ませんでした。そして日々少しづつ長い年月をかけて一層深い闇に引きずり込まれて行きました。

医療や社会から精神病や鬱が認知されてつつある現代でさえ、治療をするのが難しい、病気だから治療すれば治る、専門家のケアがが必要という観念がなかった当時には、非常に生きづらかったと想像できます。

1、生家は小さな田舎の農家でした

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 1941年夏、恵美子は終戦の4年前に生まれました。昭和という時代のちょうど真ん中。

彼女いわく兄弟あれこれ全部合わせると多分12人はいたそうですが、戦時中の当時の栄養事情や 母親の健康状態、医療環境、流産等の諸事情により無事に成長することができたのは、彼女を含めてたった3人でした。 あれこれ12人という表現は、人間の生命を軽視するようで少し違和感があるかもしれませんが当時からすれば、さほど特別なことではなかったのようです。

 彼女の母親は、小さな体で病弱な体質でした。当時の農家の嫁としてあるべき、たくましい女性像とは程遠い恵美子の母親。 病気がちで精神的にも弱かったにもかかわらず、農家の嫁として当たり前の果たすべき役割は小さな体にずっしりとのしかかってきます。まずは元気な子供を沢山産んで育てる。家事と過酷な野良仕事に耐え、気難しい義父母の面倒を見る、親戚縁者との付き合いや付け届け、季節の行事、地域社会との連携などなどなど、嫁ぎ先での膨大なプレッシャーに耐えながら、ひ弱な小さな体で12人の子供たちを妊娠し続けることは、並大抵のことではなかったろうと思います。

 終戦後75年という長い時間を経て、今でこそやっと少しづつ古めかしい女性のあるべき姿の呪縛から開放されて きました。結婚して家庭に入り、子供を産んで夫の助けもなく育てる、家事の全てをこなして家庭を切り盛りするという生き方を、選択をしない人生も可能になってきましたが、それでも多くの日本の女性たちは今も日々、何百年も続いてきた日本人の固定観念に、根強くはびこるあるべき女性像に縛られて不自由な生き方をしているように見えます。

 昭和から、平成、令和と年号はいくつも変わりましたが、その呪縛から完全に解放されるには、 あと何十年かかるのか、そんな時代やいつか来るのか全く想像がつきません。

 恵美子と母親、それぞれ全く違う2つの人生は昭和という時代に大半を過ごしました。 恵美子の母親は生まれ育った田舎の生活しか知ることのなかった人生。多くの人々はまだとても貧しく 食べ物にもあまり恵まれていなかった時代。2つの大戦に間で肥大し、軍事国家に向かう日本でしたが そんな中央で起こっている事など全く無縁の田舎暮らし。

そして恵美子は、多くの国民が農家を離れ都会に工場や会社で働き始めた時代、2度目の世界大戦を経てやっと開かれた近代の国に移行して行った時代を生きてきました。恵美子はそんな時代の潮目に生まれ 高度経済成長の波を受け、夫に社会に、翻弄され続けた人生。3つの年号を生きて今年で80歳を迎える恵美子。 若くしてこの世を去った母親とは、互いの人生について決して深く語り合うことはかないませんでした。