1、生家は小さな田舎の農家でした
1941年夏、恵美子は終戦の4年前に生まれました。昭和という時代のちょうど真ん中。
彼女いわく兄弟あれこれ全部合わせると多分12人はいたそうですが、戦時中の当時の栄養事情や 母親の健康状態、医療環境、流産等の諸事情により無事に成長することができたのは、彼女を含めてたった3人でした。 あれこれ12人という表現は、人間の生命を軽視するようで少し違和感があるかもしれませんが当時からすれば、さほど特別なことではなかったのようです。
彼女の母親は、小さな体で病弱な体質でした。当時の農家の嫁としてあるべき、たくましい女性像とは程遠い恵美子の母親。 病気がちで精神的にも弱かったにもかかわらず、農家の嫁として当たり前の果たすべき役割は小さな体にずっしりとのしかかってきます。まずは元気な子供を沢山産んで育てる。家事と過酷な野良仕事に耐え、気難しい義父母の面倒を見る、親戚縁者との付き合いや付け届け、季節の行事、地域社会との連携などなどなど、嫁ぎ先での膨大なプレッシャーに耐えながら、ひ弱な小さな体で12人の子供たちを妊娠し続けることは、並大抵のことではなかったろうと思います。
終戦後75年という長い時間を経て、今でこそやっと少しづつ古めかしい女性のあるべき姿の呪縛から開放されて きました。結婚して家庭に入り、子供を産んで夫の助けもなく育てる、家事の全てをこなして家庭を切り盛りするという生き方を、選択をしない人生も可能になってきましたが、それでも多くの日本の女性たちは今も日々、何百年も続いてきた日本人の固定観念に、根強くはびこるあるべき女性像に縛られて不自由な生き方をしているように見えます。
昭和から、平成、令和と年号はいくつも変わりましたが、その呪縛から完全に解放されるには、 あと何十年かかるのか、そんな時代やいつか来るのか全く想像がつきません。
恵美子と母親、それぞれ全く違う2つの人生は昭和という時代に大半を過ごしました。 恵美子の母親は生まれ育った田舎の生活しか知ることのなかった人生。多くの人々はまだとても貧しく 食べ物にもあまり恵まれていなかった時代。2つの大戦に間で肥大し、軍事国家に向かう日本でしたが そんな中央で起こっている事など全く無縁の田舎暮らし。
そして恵美子は、多くの国民が農家を離れ都会に工場や会社で働き始めた時代、2度目の世界大戦を経てやっと開かれた近代の国に移行して行った時代を生きてきました。恵美子はそんな時代の潮目に生まれ 高度経済成長の波を受け、夫に社会に、翻弄され続けた人生。3つの年号を生きて今年で80歳を迎える恵美子。 若くしてこの世を去った母親とは、互いの人生について決して深く語り合うことはかないませんでした。