昭和婦人

終戦の直前に北陸の農家に末娘として生まれた、ごく平凡でな女性の人生のお話です。

3、父の死、居心地の悪い実家

 恵美子がまだ十代後半の時、父親が病気で他界しました。

まだ若かった父親でしたが、長年の無理がたたったのか倒れて数週間であったいうまに逝ってしまったのです。

父親の葬儀を終え、残された家族は長男の手に委ねられました。まだ結婚して間もなかった長男は膨大な農家仕事と家長としての役割を必死にこなしました。当時は農耕器具も機械化されておらず、力仕事は人力か牛や馬に頼っていました。

田んぼをいくつも持っていたので、男女問わず働き手は皆毎日早朝から暗くなるまで畑で働きます。広い畑を耕し、稲を一つ一つ植えてゆきます。

 気の遠くなる様な厳しい肉体労働。家事もガスコンロなどもなかったので女達は早朝暗いうちから起きてかまどで火を焚き、湯を沸かして米や麦を調理して、朝食を用意、食べ終えると畑に向かいます。もちろんスーパーマーケットなどなく、ほぼ自給自足の生活で家の周りで野菜などを育てて、鶏を飼い卵を採取、月に1回くらいは鳥を絞めて、肉を食卓に出します。牛肉、豚肉などほぼ口にすることはなく魚は海からさほど遠くなかったので魚の行商人がたまに各家を回って干物などを売りに来るので時折食卓に登りました。

 冷蔵庫も木製で氷を入れて冷やすだけの簡単なものだったので、滅多に食べれるわけではなく肉や魚などある時に食べるだけ、それ以外は米、麦、豆、野菜と乾物が中心の質素な食生活でした。

洗濯ひとつとっても洗濯機などはなく簡単な道具しかなくほぼ手作業、水道も通っていなかったので、何度も井戸で水を汲み、もちろん化繊などの軽い乾きやすい繊維の素材などなく、綿や麻などのゴワゴワした重い素材ばかり、農作業で汚れ切った衣類を手で一つひとつ洗うのは、かなり骨の折れる仕事でした。

 収穫が終わり、精米したお米を農協に納めて寒くなると、農作業の期間は終わりを告げます。冬の富山はとても雪深く農家仕事はほとんどできないので、冬の寒期時には男手は東京に出稼ぎに出て、家を守るため身を粉にして働き続けました。

そして家には長男の嫁とおとなしくて穏やかな次男、心を病んだ母親、恵美子が残されました。長兄の嫁はしっかりした働き者で、夫が家を開けている間は家を取り仕切り、せっせと働いていました。

 しっかり者で気も強かったため、気が弱く体の小さい義母を敬うどころか、いたわることもなくどちらかというと辛く当たっていました。もともと疎ましく感じていたようですが、家長の義父の死後、長兄が出稼ぎなどで家を空けるようになってからは明らかに義母に辛く当たるようになりました。

 富山という土地柄、雪深い冬は長い期間、誰もが1日の多くの時間を家の中に閉じ籠る生活でした。血の繋がった家族でさえ数ヶ月の間、家の中に閉じ込められるのは、ただでさえ息の詰まるものです。

 まして本来は義母の役割である家を取り仕切る仕事を担わければならない兄嫁。自身は体も頑丈だったので家事全般と農作業も全て手伝い、親類縁者の付け届け、近所の付き合いもきちんとこなしているのに、家事こそしますがいつも引き篭もってばかりの義母。血の繋がりもない、精神を病んだ他人と暮らすことは兄嫁にとって苦痛で会ったのかもしれませんが、徐々に義母に対する不満は彼女の中で大きく膨れ上がって行きました。